あなたの目をイエスから離さない
信仰とは何でしょうか?「信仰は望んでいる事柄を保証し、目に見えないものを確信させるものです。」(へブル11:1)
「信仰」(神とイエスの「忠実さ」によって生まれた関係と神の約束に対しての私たちの信頼)とは、私たち人間が望んでいることを現実にするものであり、神が約束している未だ目にしていないもの全てを保証するものである。
信仰は、私たちがまだ見ていないことがらが必ず成ると確信することです。このようにして、私たちも神様に近付き救われるのです。信仰はクリスチャン生活の基本です。
「俺は後から追いかける・・・」イエスはそう弟子たちに言うと、彼らを先に小舟で湖の反対側に向かわせた。そこに残ったイエスは、周りにいた人にも家へ帰るように伝えた。(23)みんなに別れを告げると1人で祈るために丘へと登って行った。時刻は遅く、ここにいるのはイエスのみ・・・(24)その頃、弟子を乗せた小舟は岸から大分離れた所まできていた。湖の上にいた一行は、向かい風にあおられ大波に悪戦苦闘していた。(25)午前3時から6時ごろのこと・・・小舟の上にいる弟子たちの前にイエスが現れた。ん?ちょっと待て、水の上を歩いているではないか!(26)「お、おい」「ヒ、ヒィ〰〰〰〰!」目ん玉が飛び出るほど驚いたイエスの弟子たちは湖の上に幽霊がいるのかと思った。(27)だがすぐにイエスが彼らに声をかけた。「おいおい、怖がるな!わたしだ」(28)ペテロが言った。「せ、先生!もし本当にそうなら、お、俺に『水の上を歩いてここまで来い』と言ってくれ!」(29)イエスが言った。「来い!ペテロ!」それを聞くと、船べりから足を一歩踏み出し、水の上を歩いてイエスのもとへ向かった。(30)しかしその時・・・水面を歩くペテロは押し寄せる波と吹き荒れる風に目を向けてしまった。その途端、不安が頭をよぎり水の中へ沈みはじめたではないか!「先生!たすけてぇ〰〰」(31)イエスがペテロを掴むと、「なぜ疑ったのだ?神にもっと信仰を持て!」(32)2人が小舟に乗り込んだ途端・・・ピタッッッッッ・・・吹き荒れていた嵐がまるでウソだったかのように止んだ。(33)乗っていたイエスの弟子たちは船上でイエスを讃え、口々に言った。「やっぱり、イエス、あなたは神の子だ!」
神様の言葉を聞く
イエスが言った。「来い!ペテロ!」それを聞くと、船べりから足を一歩踏み出し、水の上を歩いてイエスのもとへ向かった。
信仰は、聖書を通して語られる神様の言葉を聞き入れて、知ることです。
信仰は最高な知らせを聞くことからスタートする。誰かがキリストを伝えて初めて最高な知らせを耳にできるのだ。
信仰はどこから来るのでしょうか?
アブラハムと彼の妻サラは年をとり、サラは子供を産むことが出来ない体になっていた。それでもアブラハムは神に信仰を置き、神の約束が果たされることを信じたのだ。すると神は2人を子供が出来る体にしてくれた。
アブラハムとサラは誰に、また何に信仰を置きましたか?
信仰によって踏み出す
イエスが言った。「来い!ペテロ!」それを聞くと、船べりから足を一歩踏み出し、水の上を歩いてイエスのもとへ向かった。
ペテロは、イエスに“来なさい”と言われて、どうしましたか?
また、聞くだけでなく神の教えに従うことも忘れてはならない。聞くだけ聞いて何もしなければ、自分自身を騙すことになる。(23)神の教えを聞いているのに実行に移さない人は、まるで鏡に映る自分をず~っと眺めているようなものだ。
なぜ神様の言葉を知るだけでは足りないのですか?
イエスから目を離さない
しかしその時・・・水面を歩くペテロは押し寄せる波と吹き荒れる風に目を向けてしまった。その途端、不安が頭をよぎり水の中へ沈みはじめたではないか!「先生!たすけてぇ〰〰」
ペテロはなぜ沈み始めたのでしょうか?
だが、私たちは目に見えるものではなく、信じる心が見るものを目指して歩む。
「見えるもの」がどのように私たちの信仰を失望させるのでしょうか?
私たちは今、模範とすべき素晴らしい人々が周りにいる環境にある。彼らの生き様を見ていると、信仰とはどういうことなのかを教えてもらえる。そう!だから私たちも彼らと同じように、信仰のレースを走ろうじゃないか!私たちの目の前にあるそのレースを諦めずに走り続けるのだ!行く手を阻むものは振り払い、私たちにつまずきを与えるその過ちを振るい落とそうではないか!(2)足を止めることはせず、ひたすらイエスを見るのだ!イエスこそ私たちのリーダー、信仰のリーダーだ!イエスによって私たちの信仰が完全なものとされる!イエスは十字架で苦しみ抜いたが、まるでそれを感じさせないようにその恥を受け止めた。それは十字架上でこれから来る素晴らしい光景を感じ取っていたからこそ、彼は喜んでいたのだ。そして今、イエスは神の右の王座に座っている。
どのようにすれば私たちは信仰を保つことができるのでしょうか?
疑わない!
ただし神に知恵を求めるなら、必ずもらえるんだと確信をもって信じる必要がある。何も疑わずにだ!どんな人であれ、疑う人というのは波立つ水面のようなもの。風に吹かれて上がったり下がったりする波と同様だ。
疑いはどのように私たちの信仰に影響を与えますか?
イエスがペテロを掴むと、「なぜ疑ったのだ?神にもっと信仰を持て!」
イエスはペテロの信仰にチャレンジしました。
なぜ私たちは疑うべきではないのでしょうか?
友達に聞こう
あなたの信仰について、過去の経験の中から話してみてください。
疑いをどのように克服しましたか?
実践
最近、神様から教えられた聖書の言葉と約束について考えてみましょう。その聖書の言葉をしっかり心に留めて信仰を燃え立たせ、行動に移す方法を考えてください。
(1)「信仰」(神とイエスの「忠実さ」によって生まれた関係と神の約束に対しての私たちの信頼)とは、私たち人間が望んでいることを現実にするものであり、神が約束している未だ目にしていないもの全てを保証するものである。(2)神はこの様な信仰を持って生き抜いた先人たちのことをとても嬉しく思っている。(3)信仰は私たちに、神の命令1つでこの世を造り上げたという知識を与えてくれる。要するに、私たちが今見ているものは見えないものによって造られたということだ。(4)兄弟であるカインとアベルは、各自別々の捧げものを神の前に持って来た。しかし、アベルはより優れた捧げものを神に持って来たのだ。なぜなら、アベルは神に信仰を置いていたからだ。こうして神はアベルの信仰を見てアベルを良い男だと言った。後にアベルは殺されるが、死んだ後も彼の信仰ゆえに彼のことは今でも語り続けられている。——【創世記4:1-8より引用】(5)エノクは死を迎えることなく突然この世から引き抜かれた。彼がこの世からいなくなる前に聖書ではこの様に言われている。「エノクは神に喜ばれている男だった」と・・・その後、彼がどこに行ったのか知る者はいない。なぜなら神がエノクを引き上げ、エノクは神のそばにいるからである。なぜこんなことが彼の身に起きたのかといえば、それは全て、彼が自分の信仰を神に置いたからだ。——【創世記5:21-24より引用】(6)信仰がなければどんな人であろうとも神を喜ばすことは出来ない。誰でも神の元に来る者は、私たちが話しているこの神が真実で、生きている神であると信じている必要がある。そして、その様な人、すなわち神の導きを求め、神への祈りを決して止めない人々に神は報酬を与えるのだ。(7)ノアは、まだ見たことのないこれから来る出来事を神から告げられ、警告を受けた。しかし、ノアには信仰があり神を尊敬していたので、動じることなく自分の家族を救うために巨大な舟を造り上げた。信仰によってノアはこの世が間違っていることを示し、信仰によって神に正しいと認められた者たちの仲間入りとなったのだ。——【創世記9:8-17より引用】(8)アブラハムはどうだろう?神はアブラハムに約束を与え、今住んでいる場所を離れて別の土地に向かえと言った。アブラハムはその土地がどこにあるのかも知らなかったが、神のことばに従い出発した。なぜならアブラハムには信仰があったからだ。(9)彼は神が約束し、与えてくれたその国に外国人として住み始めた。これが出来たのもアブラハムには信仰があったからだ。こうして同じ約束を受け継いだイサクやヤコブと一緒にテントを張って暮らしたのだ。(10)アブラハムは堅い基礎のある都を待ち望んだ。神によって計画されて建てられる都を待ち続けたのだ。——【都とは、神の国民が集まる街のこと】(11)アブラハムと彼の妻サラは年をとり、サラは子供を産むことが出来ない体になっていた。それでもアブラハムは神に信仰を置き、神の約束が果たされることを信じたのだ。すると神は2人を子供が出来る体にしてくれた。(12)アブラハムは高齢で、もうそろそろ死を迎えてもおかしくない頃だった。それにもかかわらずこの1人の男、アブラハムから空に輝く星の数ほどの子孫を作り出すだけのキッカケを神が与えてくれたのだ。多くの人々がアブラハムから枝分かれして誕生し、それはまるで海岸の砂粒のような光景だ。(13)彼ら全員は死ぬまで忠実であり、生き抜いた。しかし彼らは、神が約束したものを得られなかった。それでもその約束を見ることができて、将来それが果たされることを知って喜んだのだ。彼らは自分たちがこの世ではただの外国人であり、よそ者であることをきちんと受け入れていたのだ。(14)この様なことを受け入れることが出来る人々というのは、いずれ彼らの国が訪れることを切に待つのだ。(15)もし以前住んでいた故郷のことばかりを考えていたら、彼らはすぐにでも故郷に帰ることが出来たはずだ。(16)しかし彼らはもっと良い天の国が訪れるということを待ち望んでいたのだ。神は彼らのことを誇りに思っていた。そして、彼らが「この方こそ自分たちの神である」と神を呼んでいたことに対しても、神は何の恥も持たなかった。そして、神は彼らのためにその都を与える準備をしていったのだ。(17-18)神はアブラハムの信仰を試したこともあった。アブラハムの息子であるイサクを生贄として神に捧げろと言ったのだ。信仰ゆえにアブラハムは神のことばに従った。その時、既に神はアブラハムに約束を与え、イサクからアブラハムの子孫が広がり、繁栄することになると告げていたのだ。しかしそれにも関わらず、アブラハムはたった一人の自分の息子を神に捧げようと準備に取り掛かった。アブラハムがこの様な行動がとれたのも信仰を持っていたからである。——【創世記21:12より引用】(19)アブラハムは信じていたのだ。神が死者たちを再びよみがえらせることを。事実、神はアブラハムが息子イサクを殺そうとしていることをやめさせると、それがあたかも死からよみがえった様になったのだ。——【創世記22:1-19より引用】(20)その後イサクは自分の息子たちヤコブとエサウを祝福した。イサクの信仰によって祝福したのだ。(21)ヤコブもまた信仰を持ち、手を置いてヨセフの息子たちを祝福した。この時、彼はもうじき死を迎える時で、杖に寄りかかりながら神を賛美して祝福したのだ。——【創世記48:1-22より引用】(22)ヨセフもまた死ぬ直前、これからイスラエル人たちがエジプトから出て行くことについて話した。彼が死んだ後、その遺体をどのように扱うかということも伝えた。これは全て信仰によって話されたのだ。——【創世記50:24-25より引用】(23)モーセの父と母は、ユダヤ人の全ての赤ん坊を殺すというエジプト王の命令を恐れることなく拒んだ。彼らは神への信仰の上、3か月の間、可愛い小さな赤ん坊を隠し通したのだ。(24-25)モーセは成長し、男の子から男性になると、ファラオ王の娘の子と呼ばれるのを断り、目先の快楽や誘惑に飛びつかず、神の人々と一緒に苦しむことを選んだのだ。この決断ができたのもモーセに信仰があったからである。(26)モーセはエジプトの財宝を全て自分のものにすることよりも、救い主のために試練を受けることのほうがより良いことだと考えたのだ。(27)そして、モーセは信仰を持ってエジプトを後にした。未だかつて誰も神の姿を見たことがなかったが、まるで見たことがあるかのように堂々とファラオ王の怒りに動じることなく行動した。(28)信仰によって、モーセは過越祭を計画すると、神への信仰によって破壊する者が人々の長男に手をかけ殺さないようにと子羊の血を住民の玄関の出入り口に吹きかけたのだ。——【破壊する者とは、エジプトに罰を与えるために神によって遣わされた天使のこと】(29)また、神の人々は紅海をあたかもそこが陸地であるかのように、水を割ってその中を歩いたのだ。彼らにこれが出来たのも、彼らが神に信仰を持っていたからである。しかし、追いかけてきたエジプト人たちが渡ろうとすると、一気に水の壁は崩れ、彼らは水に流されておぼれてしまった。——【出エジプト記14:21より引用】(30)エリコの城壁が崩れ落ちたのも、神の人々が持っていた信仰があったからこそだ。彼らは7日間にわたって城壁の周りをぐるぐると周り、その後一気に城壁が崩れ落ちた。——【ヨシュア記6:20より引用】(31)風俗業に関わっていたラハブもまた、イスラエル人のスパイたちを友人の様に受け入れて家に招き入れた。彼女は神を信頼していたことで、神を拒む者たちと一緒に殺されずに済んだのだ。——【ヨシュア記2:9-13より引用】(32)これ以外にも信仰についての例えがもっと必要かい?ギデオン、バラク、サムソン、エフタ、そしてダビデ、サムエル、その他の預言者たちについても話せるが今は時間がない!
ギデオン——【ギデオン — 士師記6–8章】
バラク——【バラク — 士師記4章】
サムソン——【サムソン — 士師記13–16章】
エフタ——【エフタ — 士師記10–12章】
ダビデ——【ダビデ — 1サムエル記16–1列王記2章】
サムエル——【サムエル — 1サムエル記1–28を参照】
(33)彼らみな神に信仰を置いている人々だ。信仰によって彼らは国々を征服し、正しいことをし続けた。神は約束通り彼らを助け、信仰によってライオンの口をふさぎ、(34)炎の勢いを止め、鋭い剣をよけ、危機から脱出し、信仰によって弱さを持っていた者たちが強さを持つことが出来たのだ。彼らはそれぞれの戦場で力強く、敵の軍をこてんぱんにやっつけた。(35)ある女性たちは、夫に先立たれたが死からよみがえり再び夫を取り戻し、ある者たちは、釈放され、自由になることを断り、拷問を受ける者たちもいた。死者のよみがえりを信じてより良い人生のために彼らはその残酷な道を選んだ。(36)またある者たちは、笑われ、殴られ、縛られ、牢屋に入れられた者もいた。(37)彼らは石打の刑で殺され、体を刀で刻まれ死んでいった。何人かの人だけが羊やヤギの皮でつくった服を着ていていたが、彼らはお金がなく、不当な扱いをされ、そして人々に羽谷い絞めにされたのだ。(38)この世界は、そのような素晴らしい生き方をした人々に対して良い扱われどころか冷たいのだ。彼らは砂漠や山々、そして洞窟や地下の隠れ家を点々としてさまよい歩く。(39)神は彼らの信仰を見て大いに喜ぶのだ。しかし、彼らはみな神の全ての約束を得ることが出来なかった。(40)しかし今、神は私たちにもっと良いプランを用意していたのだ。神は私たちを完全に完璧にしたいと思っているということだ。もちろん今までの彼らの様な人たちをも完璧にしたいとも思っている。しかし、まずは私たち全員が一緒に祝福を楽しむことが大切だと神は考えている。
ギデオン——【ギデオン — 士師記6–8章】
バラク——【バラク — 士師記4章】
サムソン——【サムソン — 士師記13–16章】
エフタ——【エフタ — 士師記10–12章】
ダビデ——【ダビデ — 1サムエル記16–1列王記2章】
サムエル——【サムエル — 1サムエル記1–28を参照】
(33)彼らみな神に信仰を置いている人々だ。信仰によって彼らは国々を征服し、正しいことをし続けた。神は約束通り彼らを助け、信仰によってライオンの口をふさぎ、(34)炎の勢いを止め、鋭い剣をよけ、危機から脱出し、信仰によって弱さを持っていた者たちが強さを持つことが出来たのだ。彼らはそれぞれの戦場で力強く、敵の軍をこてんぱんにやっつけた。(35)ある女性たちは、夫に先立たれたが死からよみがえり再び夫を取り戻し、ある者たちは、釈放され、自由になることを断り、拷問を受ける者たちもいた。死者のよみがえりを信じてより良い人生のために彼らはその残酷な道を選んだ。(36)またある者たちは、笑われ、殴られ、縛られ、牢屋に入れられた者もいた。(37)彼らは石打の刑で殺され、体を刀で刻まれ死んでいった。何人かの人だけが羊やヤギの皮でつくった服を着ていていたが、彼らはお金がなく、不当な扱いをされ、そして人々に羽谷い絞めにされたのだ。(38)この世界は、そのような素晴らしい生き方をした人々に対して良い扱われどころか冷たいのだ。彼らは砂漠や山々、そして洞窟や地下の隠れ家を点々としてさまよい歩く。(39)神は彼らの信仰を見て大いに喜ぶのだ。しかし、彼らはみな神の全ての約束を得ることが出来なかった。(40)しかし今、神は私たちにもっと良いプランを用意していたのだ。神は私たちを完全に完璧にしたいと思っているということだ。もちろん今までの彼らの様な人たちをも完璧にしたいとも思っている。しかし、まずは私たち全員が一緒に祝福を楽しむことが大切だと神は考えている。
そこには信仰を持つ偉大な人々と、彼らが行ったことについて書いてあります。
祈ろう!
主イエス様、聖書の言葉には力があり、真理があることを感謝します。聖書の言葉を心に留め、あなたから目を離しません。あなたを信じ、あなたがこれからの私の人生の中で起こしてくれるたくさんの素晴らしいことに感謝します。
覚えよう!
「信仰」(神とイエスの「忠実さ」によって生まれた関係と神の約束に対しての私たちの信頼)とは、私たち人間が望んでいることを現実にするものであり、神が約束している未だ目にしていないもの全てを保証するものである。